反面教師という言葉があるが、WINDOWS10(以下、Win10)というソフトはプログラム開発に関わる身にとって大変勉強になる。
私は科学技術シミュレーションソフトの改良や開発に長年携わってきたが、プログラムを作るときには、操作画面の些細なところが使い勝手を大きく左右する。実際に作ってみると、いろいろなことができるようにとボタンやメニューを増やしがちだが、これが邪魔だったりする。そうした機能を絞り込んでも、例えばしょっちゅう使う「読込」とパラメータの「保存」(リセット)が同列に並んでいて、操作ミスでえらい目にあったこともある。
Win10については、勤め先のPCは会社の方針で否応なく導入したが、PCを動かすOSであるため、そうした専用ソフトとは比較にならないほど影響は大きい。知らぬ間に自動的にWin10に置き換わるため、それまで使用していた経理ソフトが、朝会社に来たら使えなくなっていたという怖い話も聞く。損害賠償ものだが、例によってそこはうまいこと法的に責任を逃れているのだろう。
さて実際に使ってみると、操作画面が大きすぎて作業が妨害される。データファイルの中の文字列を検索するのに、その操作画面が大きすぎて肝心のデータが見えないなど、何を考えているのかと腹立たしい。やたらに大きなメニューも、作業する身にとっては邪魔もの以外の何物でもない、
一方で、ファイルを上書きコピーするときに、どちらが新しいのかといった基本情報が表示されていたのが出なくなった。不安なく効率的に作業するのに不可欠な、せっかくの機能が退化している。
時計を「ガジェット」という仕組みで画面上に表示していて重宝していたが、ガジェットは全廃されたという。メンテナンス上の事情かもしれないが、使用者のことを思うなら、それなりの代用品を用意するべきだ。
不満はぞろぞろ出てくる。単に使い慣れていないからというレベルではない。ひょっとすると裏ワザがあるのかもしれないが、基本的な機能が標準装備されていない時点でアウトだと思う。売らんがために旧版との差別化を無理やりにつけたのか、はたまた開発者の自己満足か。
そもそも頻繁に作り直す必要があるのかという問題がある。作り直しといえば、伊勢神宮の20年ごとの遷宮を連想させる。全てをチャラにして新たに作り直すというのは、大いに無駄で不経済にも思えるが、それは西洋的な思想なのかもしれない。がっちりしたものを作って長年使うというのは合理的なようだが、真新しい清々としたものを神に捧げるという心意気だ。事実、その製造技術も合わせて連綿と受け継がれているわけで、西洋文明の古代神殿はとうの昔に廃墟となっている。
ということで、作り直すことも意味はあるのだが、Windowsも伊勢神宮にならって旧版と全く同じものを一から作り直すのがいいだろう。私はその方がいいが、多分売れないでしょうね。
WinではなくてLose。Lose10とは、随分負けがこんでいる。
(2016.7.19)