想定外と迷子の勧め

 安保法制の議論が白熱しているが、露骨な中国の海洋侵略などの状況を鑑みると、国をどう守るかという本質的な議論がそっちのけのようで歯がゆく感じる。

 曰く、「危機事態の定義は何か」。それは想定できるものもあれば、想定外の事態に対処しなければならない場合もある。また、「仮想敵国とはどこか」と問われて答えるわけにいかないのは自明で、問う方がバカじゃないかと思う。あるいは答えられないのを承知で、困らせるために言っているとしたら、本来の議論を阻害している罪は重い。

 かつて(私の学生時代)、「有事」「有事」とかまびすしかった。当時大学の講義で「有事が分かるのは大国だけ」という話を聞いた。それほどに危機を察知するのは難しく、情報収集能力と、それと分かるセンスが要る。

 「想定外」というのは福島原発事故の時に広まった。安全対策をとるにあたり想定していた状況を超えてしまった、ということだ。原発も含むコンピュータシミュレーションをやってきた身としてはよく分かるが、「想定外を想定できていなかった」という無茶な批判があった。

 シミュレーションのバーチャル世界では、地震の震度だろうが津波の大きさだろうが青天井で想定でき、その影響を予想できる(一応)。しかし、非現実邸な厳しい設定は、「空想XX読本」ではないがナンセンスであり、「このくらいが上限だろう」という範囲で検討することになる。この「ナンセンス」が想定外ということだろう。

 また、バーチャル世界に世のあらゆるものを持ち込むことはできないので、実世界の中の重要と思われる範囲を切りだして扱うことになる。原発の設備に限っても、全体は無理なので、今度の事故原因となった配電盤などは扱っていなかった。どの範囲をシミュレーションするかという判断にも、「想定内」「想定外」の問題がある。  シミュレーションの有用性はゆるぎないが、あくまで道具であり、使う者のセンスが問われる。

 「想定外」の発言をしてクビになったテレビのコメンテーターもいた。同時に、ニュース番組のコメンテーターのあり方が問われた。件の番組については、関係者が「打合せ以外の発言をし・・・」という釈明があり、「(やはり)打合せしてたのかい」というツッコミがある。台本ありきのコメントって、仁鶴の「生活笑百科」かい。お笑いでないのなら、台本をなぞったコメントなど、時間の浪費だ。

 生物界の「想定外」は遺伝子の異常だが、こちらは時に大進化をもたらした(NHK「生命大躍進」)。植物の光センサーの遺伝子が紛れ込んだことで動物に目がもたらされ、ウィルスの免疫抵抗機能の遺伝子が紛れ込んだことで胎生がもたらされた。目があるというのは、元々「カタワ」だったのだ。そうなると、何が正常で何が異常かといった議論が無意味に思えてくる。想定外を許容することが、生物の多様性、強靭性につながっている。

 「想定外」の有用性をあげてきたが、身近な「想定外」に「迷子」がある。私は散歩が好きだが、あらかじめコースを決めず、パスモでぶらりと降り立ち、あえて迷子になるのを楽しんでいる。周りではスマホにくびっぴきの人がやたらに多いが、ナビに頼って自分で判断しないのは、実につまらない。時間が切迫しているならともかく、ナビ通りに歩くなど、ひも付きの浮き輪をはめられてプールを連れ回されるようなものだ。

 出版でお世話になった東京堂の本屋さんの方で、かつて数学やパズルの本が雑然と並んだ棚でマーチン・ガードナー氏の数学パズルの本に出会ったとき、宝物を発掘した気持ちがした。その本は私のバイブルとなったが、店が改装されてすっきりしてからはそのような楽しみがなくなった。思えば、これも「迷子の楽しみ」だった。

 銀座の伊東屋は、僕にとってはパズルや手品道具を自作するベースキャンプだったが、カッティングシートの販売をやめたあたりで疎遠になった。最近の改装で、商品との出会いを重視して商品数を減らしたということだが、ここでも宝物を発掘する楽しみが奪われた。商品数の多さを競うのは、ネット販売に太刀打ちできないからやめたというのだが。

 道案内や買い物に限らず、あらゆる情報がネットから得られる。道具としてのネットを否定しないが、専らそれ頼みというのは空恐ろしい。話は重大で、ネットを通じて言論や行動を制限し操作誘導できるということだ。その恐ろしさは、マイナンバー制やら個人情報漏洩などの比ではない。

 もっと「想定外」を受けとめる能力を磨き、度量を深めるべきでないのか。たまには道に迷うのも、生きている証だと思うのだが。

(2015.7.4)


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