残業の自由

過大な労働時間の末の自殺が社会問題となり、労働時間の制限がより厳しくなった。マスコミは「大変良いことで、順守の徹底が大事」というが、ほんとにそうなのかと思う。

日本企業の競争力がそがれる、とか、大手が業務時間を減らすことでその皺寄せが下請けや孫請けにのしかかるだけではないか、などの議論を聞く。その議論はさておき、まず個人の問題だ。

労働環境によっては労働時間は即、苦行の時間であり、明確に限度を設定しようというのは分かる。社会を支える労働現場の実態を知らない役人の考えそうなことだ。あるいは政治家の人気取りか。労働時間が長すぎるから短くしてしまえ、というのはあまりに短絡的で、問題は量ではなく質だろう。作業時間短縮でかえって仕事がきつくなり、ストレスが増えるということもあるだろう。

それより私が言いたいのは、(義務ではなく)権利としての労働だ。常々、仕事というものは興味を持って、できれば面白がってやらないと、いい成果は出ないと思う。新米の頃、コピーなどない時代に「青焼き」で提出書類を1枚1枚手焼きしたものだが。そんな単純作業でも、いかに手際よくやるかを工夫するのを楽しんだ。今はもう少し高度な、シミュレーションに携わっているが、積極的に面白がるように、自分の関心を誘導するように心がけている。顧客のニーズに則ってそのように進められることがプロとしての第一歩だと思っている。

そういう状態だと、どんどん前のめりで仕事を進めることは、権利であり、法で制限されることは人権侵害にすら感じる。もちろん、寝食も忘れるほど熱中し健康を害するのを防ぐ意味では有用である。

ここまで言うと仕事バカかと言われるかもしれない。そんなに好きなら、サービス残業で勝手にやればいいと言われそうだ。それで思い出すのが、某大手企業に出向いて作業したときに、ノー残業デーに暗い中で仕事を頑張っていた技術者の姿だ。そんなことは珍しくないし、今日まで日本を支えてきたのはそうした責任感。役所や公的機関に対しては、「労働時間を一律制限する以前に、年度作業の発注を年度末でなく年度初めに余裕をもって発注するのが先だろっ」と言いたい。

もちろん、これまでには仕事がきつくなった場面はあった。研究的なシミュレーションの請負作業は、どうしても答が出ないことがあり、土日関係なく家に帰れないという時期もあった。仕事や人生を投げ出したくなったとき、それを思い留まれたのは、今思えば上司の理解とフォローのお陰だ。口では「死ぬ気でがんばれ」と言う上司が、当人の適性を見極めているかどうかが鍵だと思う。その辺、デンツーはどうだったのか。

デンツーの「鬼十則」も、職場の流儀なら外からとやかく言うべきではない。要は、入社するときにその風土を理解し納得させていたかの問題、また、配属後に現場上司が適性を配慮したのかが問題だ。私も新卒入社時に父から「3年はがんばれ」と言われた。当時は「がんばれ」というエールと感じたが、思い返すと、ある程度やって向いてないと思ったら見直せという教訓のように思える、幸いそのまま継続できたが、就職はある種の賭けでもあるので、絶対視しない柔軟さが大事なのだろう。仕事の取り組み方と適性を見直す柔軟さこそ、教育なり訓練が要る。

これを機に、だらだら時間をかけるのではなく生産性をあげろ、無駄をなくせ、という風潮だ。恩師の高木重朗氏も、私が入社した当時に残業時間を心配して「欧米では残業は(要領が悪いという意味で)能力が劣ると思われる」と指摘されていた。これも正論のようだが、前提として労働は神から与えられた苦役であるという西欧思想があることを忘れてはならない。

働き方改革、こうしたことも踏まえると、存外単純ではない。

(2017.2.19)


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