女子と小人は養い難し

 「女子と小人は養い難し」というのは、大正生まれで今は亡き父の口癖の中でも特に耳に残っている一つだ。今の時世、そんなことを言おうものなら「女性蔑視」「差別も甚だしい」などと非難轟々、口が裂けても言えない「格言」だ。

 それでも、(というか、それだからこそ)耳から離れず、日常でふと思い出される格言でもある。

 つい先日、朝の通勤電車で、重いカバンを両手で下げて座席の前に立っていたら、座っていた年配の女性が自分の脚の前に荷物をそえていて、これを私のカバンが圧迫することになった。満員電車なのだから、座っている方も脚を斜めにしたり荷物は膝にのせればいいのだが、まあ気が回らない人もいるものかとほっておいたら、電車が揺れて圧迫されるたびに睨んできた。

 私は生来無口なタチだが、さすがに思わず「怒ってもしょうがないでしょ、混んでて押されるんだから」と口に出して笑ってしまった。その女性は結局にらみながら電車を降りて行ったが、そこで例の「女子と・・・」のフレーズが頭をよぎった。

 父の場合、「女子」に限らず男性でも、つまらないことにこだわるような人に対し「つきあいきれない」と嘆息するような場面で、この「格言」を口にしていたように思う。そう考えると、差別というよりは、「そんなことにとりあわず、大目にみていこう」という処世訓、自分に対する呪文のようにも思えてくる。

 そこで思い出されたのが、「おまめ」という言葉だ。私は東京下町、昭和30年代の「ガキ大将」健在の時代に育った。近所の子供社会の常識として、みんなで遊ぶとき、未熟な幼年者は「おまめ」と呼んでルールを緩めて大目にみていた。「女子と小人」というのは、要するにこの「おまめ」のことなのではないかと思い当たった。

 ということで本項を閉じようと思ったら、「女子と小人」を思い出させることが続いた。ひとつは、いわゆる「断捨離」の極致で自宅に何も置かないことを理想とするという本。まあ、人それぞれだが、私の尊敬する故高木先生ならなんと評されただろうか。先生は「何も置かない」の対極で、ご自宅は本のジャングルである。「必要になったときにネットで調べればいい」というのも、浅薄な印象を受ける。そもそも「ときめかないものは捨てる」という「断捨離」ルールも、人生には「ときめかないもの」も必要ということが分かってないようにも思える。

 もうひとつ、橋本大阪市長の「慰安婦失言」に対し、即座に反対同盟を立ち上げて記者会見した国会議員も、「女子と小人」を思い出させた。異議を唱えるのはいいが、本人の主張をよく聞いているのか疑問をもった。マスコミ報道が取り上げた1フレーズだけに過剰反応している印象を受け、「ヒス・・・」に思えた。それがまた世間の「小人」にうけるというのも口惜しいところだ。

 などと言っている私も真相を聞いたわけではないのだが、橋本市長も「真意が伝わっていない」と反論する前に、誤解を招きやすくよくよく説明しなければならない話であるなら、しかるべき方法で表明すべきだったと思う。

(2013.5.26)


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