表題の「キセキ」は、多分皆が想像するものとは違い、数の偶然に関するものだ。
非常事態の東京でオリンピックを開催することにはさんざん批判があったが、一種の国際公約を果たした意義は大きいと思う。また、前の東京オリンピックを知る世代としては、市民を元気づけるオリンピック効果は馬鹿にならないと思っている。オリンピックの意義を問われた菅首相がその辺を答弁したが、伝わらなかったのが残念だった。感染危機の中の強行に反発は多いが、免疫力アップによる感染対策効果は評価すべきだと思う。
既にサッカーや野球は多くの観客を入れて問題が起きていないのだから、そのノウハウを生かせば少しは観客を入れられたのではないかという声も、「オリンピックは4年分の歓声が上がるからダメ」だとのこと。それを言ったら、(前回から57年ぶりだから)57年分の歓声が上がるかもしれない。個人的にはチケット予約を最初からあきらめていたので、無観客という英断(または責任回避の安直策)は、むしろサッパリしたが。
観客数や人流など、何かと数が注目される毎日だが、示される統計数の罠をテーマにした面白い本が出た(カール・T・バーグストローム、ジェビン・D・ウェスト著「デタラメ―データ社会の嘘を見抜く」(日本BP))。例えば・・・
所得層別の課税所得総額の棒グラフ。特定の層の課税が多すぎると主張するために天下のウォールストリートジャーナルが掲載したものだが、横軸の幅が統一しておらず偏っているので、いくらでも印象を操作できると指摘する。そんなあからさまなデタラメが通用するものかと思ったら、テレビでワクチン接種2回の効果を示すために接種回数別の感染者数のグラフを掲げている中、「未接種」の人数が「未接種+回数不明」になっていてずっこけた。「デタラメ」の指摘そのもので、回数不明の部分に2回接種の人が多数含まれていたら話にならない。別のテレビ局ではしっかり「回数不明」が別枠になっていたので、少しは信用できた(回数不明の多くが2回接種でないことを祈る)。
また、「相関関係」と「因果関係」の混同という罠がある。毎日報道されるコロナの死亡者数は、丁寧な言い方では「感染が確認されたうちでの死亡者数」となるが、それでも「コロナになったので死亡した」ととらえやすい。コロナ以前でも残念ながら一定数の死亡はあったので、感染していなくても死亡していたかもしれない。ただし決して脅威を矮小化するつもりはない。逆にカウントされなかった感染死亡も多数あっかたもしれない。
ワクチンの効果を示す抗体数についても、マスコミは「接種後数週間で激減した」という報道で不安をあおるが、専門家によると減少は想定内で多めに抗体を作るので、むしろ減ったあとに一定数維持されればいいのだという。どういうカーブを描くのかが大事であり、2点だけ測定値をグラフにした直線を意気揚々と掲げる報道は胡散臭い。「デタラメ」でも、数年後にマイナスになるような予測グラフの例を挙げていた。個人的には、シミュレーションを生業にしているので、グラフのデータ数は常に気になる。
さて、私に訪れたオリンピックのキセキの話。開催1年延期のおかげで、私は64才で迎えることになった。なんと、前回開催の’64年と符合している。さらに、前回開催から57年目となるが、私の生まれは’57年。なんとなんと、2重の一致だ!
と思ったが、よく考えると1900年を起点に、57年後に生まれた私が64才になる今年と、’64年に開催されてから57年たった今年は 1957+64=1964+57で一致しているだけのことだ。実は、去年から同窓会を延期中だが、実現すればそのような「2重の一致のキセキの人」がぞろぞろ集まることになる。普段会わない多人数が会食する同窓会は感染リスクMAXの行動としてやり玉に挙がっているが、そんな話題が旬なうちに開けることを願うばかりだ。
(2021.9.10)