赤毛のアンに笑われる

 ウイルス自身に考える頭はないにしても、感染先の人間を重症にするのは未熟さゆえで、軽症に済ませるように進化した型の方が淘汰されて増えていく。オミクロンがその始まりであることが期待される。

 そうした状況の変化に柔軟に合わせて、コロナと共存する「ウィズコロナ」の方策を科学的・合理的に検討するときが来ていると言われる。

 一方で、中国の「ゼロコロナ」政策は専制国家ならではの一つのやり方だと思っていたが、実態は生易しいものではないらしい。感染者を見つけるやその一角の全員(住人に限らずたまたま足を踏み入れていた者まで)を郊外に連行して隔離し、その市の感染者をゼロにする(目標達成!)のだと聞いてぞっとした。脱線した高速列車を埋めてしまって なかったことにするお国柄だからやりそうなことだ。

 幸い日本はそこまでしないが、個人レベルではどうかと思うことがある。

 「赤毛のアン」の実写版ドラマをNHKでやっていて、19世紀末のカナダの片田舎で主人公の友達が、ダンス(といってもフォークダンス)の練習で男の子と手をつないだので「妊娠してしまったかも」と嘆くシーンがあった。微笑ましいが、はっと思った。というのは、普通の生活で接触感染を過渡に恐れる風潮をみると、この子を非科学的とか無知だと笑うことはできないのではないか。感情的思い込みで科学的根拠もなく未知なものを恐れるのは、昔から変わってないじゃん、と逆に笑われそうだ。

 そもそも皮膚には常在菌があって、バランスを保っている。そのため、ケガをしてもむやみに消毒薬を塗らないのが常識になっているという[1]。それからすると、感染対策として手指を必要以上に消毒するのもどうかと思う。個人的には会社や店先での手指消毒は励行しているが、エチケットというか、周りの人が安心するようにという心遣いだと思っている。度が過ぎる完璧主義が弊害ばかりなのは、「濃厚接触者の隔離」も同じだろう。

 「何でもかんでも」という完璧主義は、それ自体が快感になってくると思うが、「断捨離」もそれに似ている。たとえ快感でもあくまで個人の趣味の問題であって、他の人にも完璧を求めるのは大きなお世話だ。・・・などと思っていたら、五木寛之氏が近著で語っている[2]。思い出のあるモノは、記憶を呼び覚ます依代であり、孤独感から救う効果があるので、残すことも大切だと。

 飛行機で乗って墜落死するより、空港までの往復のタクシーで死ぬリスク(確率)の方が大きいという[3]。目立つリスクばかり気にしすぎるのは愚の骨頂だ。

[1]山本健人著「すばらしい人体―あなたの体をめぐる知的冒険」(ダイアモンド社)
[2]五木寛之著「捨てない生きかた」(マガジンハウス)
[3]ロイド&ミッチンソン著「世界の教養大全」(マガジンハウス)

(2022.2.1)


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