H.A.の3.11〜東海村にて〜

 日本中が震撼した3.11。私は自宅の東京から、茨城県東海村の(原子炉を有する)「某研究機関」に日帰りのつもりで出張していた。

3.11

 私は、社会に出て以来、原子力安全解析(原子炉内の熱流動シミュレーション)に携わってきていて、「某研究機関」で作業をしていた。しかも、皮肉にも地震時のシミュレーションが対象。予定していた作業をこなし、これで今日は早めに帰れると安堵したときだった。不意に揺れ出した。これが被災体験の始まりだった。

 震度6弱。激しい揺れで、背中に迫る書棚から資料が落ち、レール上の棚自体が左右に動いて、思わず手でおさえた。怖いというより呆気にとられ、茫然と「すげえなー」と見ていた。小さい頃から「地震にあったらどうしよう」とけっこう心配してきたが、いざ遭遇すると意外と平静だった。パニックに陥らなかったのは、自然の摂理というものかもしれない。

 長い脈動的な揺れが一段落し、いつもコーヒーを入れてくれる女性所員が、書棚の反対側から声をかけてくれた。気づくとパソコンの画面は黒くなっていて、仕事どころではないとやっと悟って、大事なデータ類をさっとしまい(我ながらプロだねぇ)、コートをはおって席を立ち、これで撤収完了。何かの部材でひっかかっていたドアを押しあけて廊下に出て、女性の言われるまま「こういう場合の集合場所」である建物脇の駐車場に向かう。振り返ると書棚の一部はひしゃげていた。

 そこまでいたのは築40年の研究棟で、所員は地面が隆起したと指摘するが、こちらは元の状態を知らないのでピンとこない。駐車場に続々所員が集まり、今回の担当者であるSさんとも会えた。お取込み中なので失礼します、とそそくさ帰ろうとしたが、しばらく待った方がいいと留められた。別の所員が「まず常磐線はダメで、茨城交通の方が先に通じるだろう」と話し、Sさんには「交通機関がアウトならウチに泊まりなさい」と言っていただいた。常磐線は、大雨でも停まり、強風でも遅延するから、大地震では到底あてにならない。その間に、会社のMさんから電話があり、無事を伝えた。家内にもメールしたが、当分通じなかったようだ。

 ほどなく、ここは海岸に近く(というか、忘れていたが原発も同じ敷地内ですぐそこ)、津波警報が出ているので裏山を超えて陸側に移動するように指示が出ているとの報で、一同で移動。私はコートを着、Sさんはいつものカーディガンをはおっているが、先の女性はじめ一様に着の身着のままで寒がっていた。途中、すぐ近くで大木がミシミシと音を立てて倒れ、これはもう笑うしかない。見ると、倒れたばかりの木も見られた。

 古い建物は壁の一部がはげ落ちたりしていて、比較的広い場所に着いてから再び大きな揺れが来て、ただごとではないと言うか、現実離れした別世界かアトラクションのように感じた。さらに正門近くの事務棟付近に移動。移動途中、2つ並んだ建物の連絡通路を細い柱で支えられたコンクリートの屋根が覆っているところを横切るときは、意を決して「せーのっ」という感じだった。

 事務棟は司令部らしくいかにも頑丈な造りで、それでも余震が来ると近くのポール共々やっぱり揺れて、トイレに行ってきた所員が中で余震にあって怖かったという。外国人の研究員がツナミは大丈夫かと心配していた。私は「心配し過ぎ」と思ったが、この認識の甘さはこの時点まではおそらく日本人のほとんどに共通していたのではないか。

 所員はクルマの鍵を研究棟においてきていて、それがないと家の鍵もない、などと、とりに戻ったものか迷っていた。指示は一向に来ず、皆で、先の女性が持っていたモバイルや、駐車中のクルマのラジオからの情報に聞き入る。震源は複数、宮城県では大津波警報、茨城でも津波警報が出たと知る。所内の指示は「津波警報解除まで待て」とのことだが、それでは何時間かかるか分からないと言い合っていた。Sさんは「自宅が『ぐじゃぐじゃ』」というメールを受け、「様子が分からん」と戸惑っていた。

 事務棟脇で見ていると、観光バス(よりによって見学していた?)やら、受注会社のクルマが続々所外へ出ていく。実は今日が最終日だったという派遣らしい人もあいさつして去って行った。私もSさんに 「どうします?」と聞かれ、「ともかく駅に行ってみます」と答えた。先の「自宅へ」の申し出を受けて、万一のためにと電話番号を教わったが、Sさん宅も「ぐじゃぐじゃ」とのこと、ご厚意だけありがたく受けさせていただいた。

 入退所チェックが厳しい施設のこと。いつも入室時に身分証、退出時に職員の認印が要るが、Sさんはハンコなど持っているはずもなく、「さすがに今日はいいでしょう」とサインしてくれた。守衛に出しながらその旨断ったが、さすがに今日はとがめられなかった。

 機構前の交差点は警官が出て交通規制し、すでにクルマが連なっていた。機構の目の前にいつも利用するタクシー会社があるが、渋滞をにらんで今日は歩くことにした。それでも家路だと思うと足取りは軽いが、途中ブロック塀がごそっと落ちていたり、駅に向かう道路は膝丈ほどの段差が横一文字に通っていて封鎖されていた。段差をよっこいしょと乗り越えて進み、知らずに向かって行くクルマに注意してやろうか、Sさんに伝えようかなどと思いながら進む。

 やがて駅前のスーパーが見えた。駅の待合室での夜明かしを覚悟していたので食料でも仕入れようかと思ったが、まっ暗。そりゃそうだ(あとで、商品にスプリンクラーがかかったという噂も聞く)。客や店員か、隣の駐車場に人だかりができていた。突き当りの東海駅もまっ暗。2階が改札という構造だが、入口の1階で警報ベルが鳴りっ放しで、2階への入口はテープで閉鎖。駅前の茨城交通の停留所に行ってみると、数人の会社員(お仲間?)が所在なくたむろしていた。

 そうこうするうち、だんだん日が暮れてきた。状況不明のまま、駅入口のトイレを借り、「避難所」ということばを聞いて、スーパーの人だかりに寄ったが、撤収するところだった。駅舎の案内地図前で駅員さんが「お仲間」らしい会社員2人に説明しているのを見つけ、駆け寄ると、公共の避難所を案内しているところだった。海側の研究所に対し駅の反対側(山側)にかなり歩いたところだという。さっきの天の声は村役場の放送らしい。駅員は「行ってもどんなサービスが受けられるか分らない」と言うが、寒さがしのげるだけでもありがたいと、初対面の3人で言い合って、一緒にそこへ向かうことにした。

 途中、宿屋は見かけたがどこもまっ暗。信号も消え、ブロック塀や屋根瓦などの惨状を見ながらたどり着いたのが、避難所にあてられた舟石川コミュニティーセンターという立派な建物。やはり中はまっ暗で、それでも機構の研究棟以来の屋内でほっとする半面、「へたするとここで倒壊にあって、これがこの世の見納めとなるかも」ともちょっと思った。懐中電灯のもと、受付で住所・氏名・年令を記帳。

 3人が案内されたのは18畳の「和室2」で、暗いながらゆったりと足を伸ばしていたら、続々避難してきた住民が加わり、最終的に54人の密度となった。赤ん坊もいるが。ざっと2畳に5人。地元の方からは「村内放送で『受け入れ準備が出来ている』とアナウンスしたので皆が集まって来ているが、電気も水もなく、『食料持参で』と呼びかけるべきだった」との声も聞かれた。

 やがてディーゼル発電により裸電球が灯った。部屋の中をわたした電線から下がる裸電球は、私の世代には懐かしい。さらにパックされた毛布(2人で1枚)、菓子パン(2人で1個)、非常食の五目ごはん(アルファ米)が配られた。よそ者の私としては遠慮しようかとも思ったが、このさいありがたくいただくことにした。私らはだんだん部屋の奥に押され、縁側に近い。非常時はそこから出ろとのこと。そうでした、余震の怖れがあった。実際余震があったが、慣れてしまった。

 混み合う中、子供が「自販機も使えないの?」と話しているのが聞こえた。そうだった、停電だった。白状すると、私自身その時初めて、飲み物なら簡単に調達できる、という通念が通用しないことに気付いた。

 9時頃、会社のMさんから電話。東京も交通マヒで、会社に足止めとのこと。家内にもメールするが、受けとれたのか不明。どうも受信のタイミングがずれている。帰りの常磐線で書くつもりだったMMC講義録の下書きを書いてすごした。さて道連れとなった2人は、暗やみで本を読む顔が、渋いモーガン・フリーマンそっくりのT氏と、小柄でネットによる情報チェックをするあたりが、奇術研究家の松田道弘氏を思わせるT氏。(名前は後で分かった)

 地震の被害や交通の状況がさっぱり分からない中、携帯でネットを通じて情報を得る可能性が唯一残っていたが、先が見えない中、携帯は最後の頼みの綱として充電量を極力温存することにした。

 人をかきわけるのがめんどうでガマンしていたトイレには11時に行った。部屋を初めて出たが、館内、廊下やロビーにも毛布をかぶった人であふれていた。ロビーのテレビでは地震の報道が続くが、画面が大嵐で、テロップが読めない。おそらく、一番知りたいローカル情報はこっちなのに。嵐なのはアンテナが曲がったせいだろう、とあとで聞いた。

 コートを着たきりの夜は、赤ん坊4人の夜泣きと、足が伸ばせない窮屈さで眠りは浅かったが(年寄りが避難所生活で体調を崩すというのがよく分かる)、それでも眠れたのが不思議。家内からは私のメールを3時すぎに受けとったと送信があった。混んでいるのか、停電で中継が断続的なのか。

3.12

 朝を迎え、避難しているおばさん達にも動員の声がかかって、しょう油味のおにぎり1個ずつが配られた。「昔と違って釜が小さい」とおばさん達が言い合うように、当室に回ってきたのはだいぶ遅くなった。「食料が底をついたので昼で食事の配給は終わり」と通告される。もとより、ぜいたくは言えない。

 「JRが7時頃再開」という情報に、勇躍、遅いみそ汁をパスして9時頃3人で駅へ向かう。途中、「小中幼は月火休み」との村内放送を聞く。2人が駅の天井が落ちたと言うように、駅は封鎖されていた。避難所を出るときに、職員の方が「電車はまだムリ」と言っていた通り、常磐線自体、「運行見込み立たず」との非情な掲示。茨城交通も「高速不通のため運休」の貼り紙。ミチヒロ氏が茨城交通に電話するが誰も出ない。

 フリーマン氏は家に連絡がとれないので、と公衆電話の行列に加わり、集まっていた人達からいろいろ情報が得られた。いわく、隣の勝田駅でもホームが使えなくなった。いわく、上野から取手までは開通した。公衆電話の方は、非常時ということで通話後代金が戻ってきたという。それまで3人で、水戸まで行けばなんとかなるかと話していたのだが、取手となるとかなり遠い。フリーマン氏は現金の持ち合わせが少ないので、この辺のタクシーでクレジットカードが使えるのかを気にかけていた。

 もうしばらくは様子見しかないと、3人ですごすごセンターに戻る。帰る途中、停電でポンプが使えないせいか休店のガソリンスタンドがある一方、自家発電なのか営業しているガソリンスタンドもあった。実は、天井に吸い上げていた分を売っていて、それで終わり、とあとで知った。これではタクシーもガソリン不足で、どこまで行ってくれるか怪しくなった。

 センターでは、ちょうど、出がけに忠告してくれた人とすれ違い、ほらみたことかと「南の方はあちこち橋が落ちてて行けない」と教えてくれ、「これも縁だからゆっくりしていきなさい」と言ってくれた。舞い戻った和室は、人がだいぶ減っていた。

 ニュースでは「日本全国連続大地震」として報じていた。いよいよ大ごとだ。昼を前にして、フリーマン氏はレンタカーの利用も考え、熊谷の弟さんに迎えに来てもらうと言って駅まで電話しに行った。その間に、最後の配給と言っていたおにぎりとみそ汁が配られ、フリーマン氏の分もキープ。ところが彼もおにぎりをもらって帰ってきたので、(余った分を分けようとは言うが)進呈した。あとで、おにぎりをくれと言ったのに「もうない」という断り方が気に入らないと騒ぐ(ありがちな)オヤジの声が館内に響いていた。

 フリーマン氏によると、弟さんは1時過ぎに出るので時速20キロで6時頃に来るかとのこと。「今日こそ脱出しましょう」というお誘いに、「便乗させてもらってすみません」。しばし素性情報を交換した。家内には、橋が落ちるなど道路が寸断されている等、状況をメールした。

 駅までの途中のセブンイレブンで販売を始めているのを見かけたというので、食料の買い出しに3人で出向くと、「13:30開店」の貼り紙で、まだ13時ながらすでに100人の行列が、広い駐車場にできていた。やっと開店したが、8人ずつの総入れ替え方式。それでも、はいった客がなかなか出てこない。やがて「お互い様です。1組1カゴ位にして下さい」との注意が貼り出された。ローソンでは袋づめで店頭販売していて回転が早かったとの話も聞かれ、寒風の中待たされる身としては、そっちの方がはるかに賢いと思う。フリーマン氏は「マニラではこういうとき2倍で売っていた。それでも売れる」と話していた。それよりマシだろうが、セブンイレブンは客の好感度アップの機を逃しているのではないか。

 順番を待つ間、フリーマン氏は駅まで電話に行き、結局弟さんは来ない、父君がとめたとの報せ(父君は阪神大震災を経験しており、用心したらしいとのこと)。万事休す。村内放送は「今日中の電力復旧はないので、各自そのつもりで夜の対策をとるように」と伝えた。

 空にはヘリ、道路も「救援物資」と書かれた自衛隊のトラックが通るが、「皆、宮城に行くのだろう。茨城は後回し」と話し合った。行列の人には「昨日東京までクルマで行った人は13時間かかった」「情報不足なので、役所の放送でも地元ラジオを流してくれれば助かるのに」などと話す人もいた。13時間にせよクルマで東京にたどりつけるというだけでも一筋の光明。スーパーに対して物資放出の指示が出たという。

 行列に加わって3時間半。やっと順番が来る頃には日も暮れてきて、後ろにずらりと出来た列の最後尾に「ここまで」のカンバンが立った。店内にはいるといきなりペンを渡された。商品に、棚に表示された値段を直接書き写してくれという(バーコードが使えないため)。弁当、サンドイッチなどはやはりなく、スナックやアイスクリームなどしかない。先にはいった人達がなかなか出てこない理由が分かった。電子レンジを使うものも少し残っていたが、我々3人で買いとった。(私とミチヒロ氏はナンドック、フリーマン氏はゼリー状のスープ付きごはん。チンせずに何とか食べたという)

 レジが停電で使えないので、店員は手書きでメモをとり。電卓で計算。しめて791円。セブンイレブンの入口にも電話をみつけ、2人はかけていくと言う。こっちは冷え切ったので先に戻る。途中、会社のY君から「家に戻ったか」とのメールが着き、「まだ東海」と回答。家内からも「電源は?場所は?落ちた橋はどこ?」との矢つぎ早のメールが届いていたが(問合せないと着信しないようになっているらしい)、まさに電源が切れそうなので、その旨と明日帰るとだけ送った。(「場所」というのは、避難所の名前をインターネットで探そうということだったと後で知る)

 センターでは汲み上げた水を浄化し、地域の給水所となっていた。その給水に並んだクルマの間をぬってセンターにはいると、和室2が「要介護の方優先」と貼り紙。行き場もなく、同室のそれまでいた場所の隣の方に小さくなっていたら、人数が減ってゆったりまん中があき、そこをすすめられた。部屋にはいってくる人に正対して「こんにちは」というような位置だが、かまってられない。仕入れてきたフルーツオレとチョコとスナックをかじっていると、食パン1枚とイチゴ1個が配られた。業者の厚意の差入れだという。本当にありがたい。イチゴの甘いこと。

 夫婦連れのおばさんがラジオ情報を教えてくれた。「地元の(別の方の)信号が点いたので、こっちももうじきだろう」(我々3人が所持金が少なく銀行でおろせないのか困っていると言っていたので)「常陽銀行で相談窓口を開くらしい」。福島原発の事故も話題になり、「放射能は時間かかるが、津波は一瞬なのでこわい」と言い合う人もいた。「昨夜は赤ん坊を泣かしておくので気になって眠れなかった」「今夜は静かで眠れる」と夫婦が話していたら、不意に赤ん坊が泣き出し、一組残っているのに気づいた(私も危うく「そうだそうだ」と言うところだった)。赤ん坊ではないが、少年がゲームか何かで起きていて、気になった。

3.13

 今日こそ帰れるかどうかと期待と不安で迎えた朝早く。館内に、県外に通じる無料の電話があるという(駅まで電話目当てで通ったフリーマン氏の苦労は一体なんだったのか)。5時を待って(夜に強い)家内にかけてみると、「おう、」だって。それはそれでかえってよかった。(勤め先からの呼び出しかとびくびくして電話に出たので、ほっとした一声だった、とあとで話していた)。橋が落ちたという話をしきりに聞くが、具体的にどこの橋がということではない。

 部屋に戻ると(ラジオの)おばさんが「つくばエキスプレスは通った」という情報を教えてくれ、旦那は朝日新聞をもらってきた。ロビーでテレビを見ていたら、隣に束でおかれ、皆がアリのように群がるのを、さっともらってきたと言う。新聞の道路情報で海側の道路はどこもダメ、ここもダメ。おばさんが空港もダメと付け足した。別のおばあさんは、出張3人組に1個ずつオレンジをくれた。温情身にしみる。ともかく常磐線はレールが曲がって数日ムリそう。

 別のおばさんが、館内トイレは汚いが、外のトイレがまだきれいだと言うので、館外を回り、隣の畑に「仮設トイレ」と書かれたビニール小屋をみつけた。のぞいてみると、広々とした中、地面に穴があけられていた。うーむ。(結局、地震後から東京に帰宅するまで「大きい用」は足さずじまいだった。)

 フリーマン氏は水戸まで20kなので、最悪歩くつもりでタクシーをみつけようと提案(水戸は常磐線が動いてないが、電気が通じているので、少なくともホテルに泊まれる)。館内に留まっている人数が減ったせいか、おにぎりとみそ汁が配られるとの報があり(今日は梅干がまぜられていた)、食後、名前と滞在理由の再確認をするという。長引きそうなので、受付で記名して出発することにした。職員の皆さんにお礼。

 3人でカバンと昨日のコンビニ袋を持って歩いたら、給水待ちの人から「どこのコンビニだろう」との声が聞こえた。駅の東口に行くが同じくガラーン。タクシーをさがし病院方向(海方向)へ行く途中、地元の人に話が聞けて「さっきの人は、水戸から走ってきた」と言う。水戸まで徒歩が可能と分かる。西口にタクシー会社があると言うので、そっちに回る(駅が通れず、踏切が遠いのでこれが一苦労)。歩きながら、タクシーがダメならヒッチハイクかと話し合う。

 途中、通りかかったクルマが、私らのレジ袋をみつけてわざわざ停まり、どこで買ったのかと尋ねられ、事情を話す。気がつくと駅からタクシーが客を乗せて走り去った。他にタクシーはない。駅近くのタクシー会社にタクシーをみつけたが、ガソリンが切れて動かないと言われる。「お互いがんばりましょう」と言い合ってタクシー会社を後にした。

 村内放送が「本日通電するので、不測の事態が避けるためブレーカーを落としておくよう」伝えていた。水戸に向かう国道6号は、かなりのクルマ量。ミチヒロ氏が警官に話しかけ、結局「タクシーを拾うのは難しい」というので、フリーマン氏が「ヒッチハイクしかないかなと考えてます」、警官は何も言わず。

 もう10時。2人がヒッチハイクを始めると、大勢つめたタクシーがまざり、普通車が通り過ぎる。私は8キロなら勝田まで歩き始めたらと言いかけたが、フリーマン氏がティッシュに「水戸」と書いて掲げると、ほどなく夫婦連れのボックスカーが停まった。「こんなときはお互いさま」と、事情を話すと、「いっそ、つくばまで行きましょう」と言ってくれた。東海の先の娘さんに水を運んだ帰りで、仕事場が土浦なので、ついでに様子を見ることにすると。つくばで電車が動いているならガソリンスタンドもやっているはず。往復分はガソリンがもつから、と。それで、ガソリンが入れられそうか、旦那さんがつくばの知人にメールするが、なかなか返事がなく、やっと通じたら(実は大学の教授で)ずっと学内にいて市内のことは分らないとのこと。

 渋滞があるとどこもガソリンスタンドで、山中の片側一車線で長蛇の列には困ったが、抜け道を行く。車中、経験談を語り、おじさんも青森で十勝沖地震に出会ったことや、住民に配られていた有線放送が今回役に立たなかったことなどを話してくれた。

 信号やコンビニは灯いていたりいなかったり。途中、信号が長く赤で、奥さんが「両方赤?」というので旦那がクラクションを鳴らしたら青に変わり、「おこられちゃうよ」。佐和の日立は上部の壁が崩れていた。また、ラーメン屋が道路脇にテーブルをおいて店頭販売。うまいアイデアだ。霞ヶ浦からつくばを臨むが、直行道が封鎖で、回り道。

 途中、野原の中に常磐線の電車をみつけた。一見平常だが、よく見るとポツンと立ち往生していた。

 つくば近くでセルフのガソリンスタンドが空いているところを見かけてすべりこむ。道をのぼったところで、穴場だったようだ。旦那さんはしきりに「ラッキー」。セルフはやったことがないと言うので、フリーマン氏が知っていると申し出る。また、3人でガソリン代を支払わせてもらった。我々3人にとっても、今回のお礼をどうしたものかと悩んでいたので、ラッキーだった(善意に対するお礼というのは難しいものだ)。レギュラーは20Lまでの制限があり、ハイオクなら制限がないというのでハイオクを選んでいた。奥さんが支払うと、あとは店員がやってくれた。列ができているのでセルフでまかせてられないということか。

 旦那さんは内装材の会社だそうで台湾の電車の床もやったとか。一方、地元で電気が通じたと知らせを受けて「えー」と言った奥さん。実はガソリンスタンドで働いていて、営業再開だと本当は行かないといけないという。

 そのうちクルマはつくば学園都市の並木道にはいり、ほどなく、つくば中央駅に到着。駅は何事もなかったかのようで、車中、昨日仕入れた食事(ナンドックとスープごはん)。これまで機会を逸していた名刺交換をし、終着秋葉原で別れた。貴重な体験談を土産に勇んで帰宅したが、東京も結構おおごとになっていることをまもなく知ることとなる。

 服は着たきり、体重は出張前夜から4kg減(「出して」ないのに、質量保存則は成り立っているのだろうか)。万歩計は3日で32,000歩になっていた。避難所にこもっていた割に多いようにも思えるが、セブンイレブンの行列で寒くて足踏みしていた分がかなり占めているのかもしれない。

 ちなみに、東海村の原発も津波があと40cm高かったらポンプが浸水していたところだった、という話をずいぶん後になって聞いた。避難当時は原発のことはほとんど気にかけてなかったが、けっこう危うかったわけだ。

 それはともかく、つくづく、助け合い・励まし合い、人情のありがたさが身に染みた3日間だった。


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