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自伝風エッセー(28) 記憶をたどる〜愛媛県農事試験場周辺〜 (その2)
2010年12月11日
【農事試験場の構内配置図】
ぼくらが遊んだ農事試験場は、いまや思い出の中にしか残されていない。
その構内配置図を、思い出すままに描いてみた。どこかに資料でもあろうかと、探してみたのだが、見つけることはできなかった。『愛媛県農業試験場七十周年史』(1970年)という公式記録集を見ても、研究成果といういわばソフト面にもっぱらの重点が置かれていて、構内の配置図といったハード面にはまったく触れられていない。
しかし、子供時代をそこで過ごしたぼくたちにとっては、何が研究されていたかということは二の次であって、遊びの場というハード面こそ大事である。広い構内の、どこで何をして遊んだかということが、強いていえばソフト面ということになろうか。
下の構内配置図は、子供の目に焼きつけられた記憶と、入手できたわずかな写真とを元にしたものである。ぼくにとって日常の遊びの場とは言えなかった東寄りのあたりには、少々あやふやなところもある。しかし、記録がほとんど残されていないこうした配置図は、人の記憶が薄れるとともに消えていく一方である。何らかの形で、記憶を目視可能なものにしておくことは、今しかできない意味ある仕事だと考えた。

(図1)

なお、上の図は、ぼくが小学4年生のころ(1957年ころ)を基準にしている。たとえば1970年には、創立70周年を記念して4階建ての庁舎が建てられ、上の図の「化学実験」、「講堂」、「小区画された実験田」、「鶏」と書かれたあたりはすっかり様変わりした。
皮肉なことに、その新庁舎だけが、農事試験場が県民文化会館へと大変貌を遂げた今に至るも、そのまま残っている。
ちなみに、農事試験場は、一辺が200m弱のほぼ正方形の形をしていた(北半分は圃場と呼ばれる田畑であり、南半分に研究施設がある)。

【農事試験場の名称】
ぼくはもっぱら「農事試験場」と呼んできたのだが、正しくは「農業試験場」であった。今回、『愛媛県農業試験場七十周年史』を見て、驚きとともにそれを知った。「農事試験場」から「農業試験場」に改称されたのは昭和29年12月とのこと。ぼくが小学1年生のときである。農事試験場を遊び場にし始めたころと言ってもよい。
しかし、周囲の大人も子供も、みな「農事試験場」と呼んでいた。それはたしかである。「農業試験場」などと呼ぶ人はいなかった。おそらく、改称されたことは内部の人にしか徹底しなかったのであろう。門の看板をよくよく見ればわかったのかもしれないが、「のうじしけんじょう」と呼び慣れた頭には、「農業試験場」を見ても「のうじしけんじょう」としか読めなかったと思われる。

【農事試験場の簡単な歴史】
ついでに、『七十周年史』をもとに、歴史を簡単に振り返っておく。
明治33年(1900年) 余土村に創設された(名称は県立農事試験場)。 
明治45年(1912年) 道後村に移転。 
昭和5年(1930年) 農業技術員養成所を併設(名称や修業年数は後に何度も改変)。
昭和19年(1944年) 県立農事指導場と改称。 
昭和20年(1945年) 県立農事試験場と改称(元に戻った)。 
昭和29年(1954年) 県立農業試験場と改称。 
昭和45年(1970年) 新庁舎完成。 
昭和61年(1986年) 北条市に移転し、跡地が県民文化会館となる(移転は1,2年前か?)。

【独身寮】
テニスコートのすぐ南に独身寮があった。間には生け垣があったが、生け垣越しに、テニスコートで遊ぶぼくたちと独身寮の青年たちとはよく交流していた。夏場など、開け放した窓から部屋の中が見え、ギターの弾き語りを楽しんでいる青年もいて、向こうからもこちらからもよく声をかけた。部屋に入れてもらってギターを聞かせてもらったこともある。
『七十周年史』を見ると、独身寮というよりも、養成所の寮であったというのが正しいらしい。養成所は当初は修業年限1年であったが、後に2年となり、昭和25年には「高等農業講習所」と改称されている。ぼくらが遊んでいたあのお兄さんたちは、「高等農業講習所」の学生であったわけだ。

【土手】
農事試験場の南面(電車通りに面している側)は、高さ5,60cmの土手になっていた。土手の上に背丈の低い生け垣がある。下の写真1(1962年)からその様子がわかる。写真1は、正門前の電車通りを渡ったあたりから西を撮ったものである。なお、写真の中央付近に2人立っているが、そこが図1における、「小区画された実験田」と「花畑」の境界をなす道への入口である。
(写真1)

土手はぼくらにとって楽しい遊び場であった。特に「小区画された実験田」の土手(写真1のちょうど中央)の裏側でよく遊んだ。ツクシをとり、花を摘み、イタドリをポキッと折って食べた。イタドリの生は渋みがあるが、うまかった。ぼくにとってのイタドリの原風景はこの土手である。
土手の遊びでもう一つ懐かしいのは、農事試験場の南西の隅(図1におけるFの地点で、上の写真だと電車の陰)である。そこに電柱が立っていて(電柱の先っぽが写真にも写っている)、それを支えるワイヤが斜めに張られていた。電柱には工事人が上がるためのハーケンのような杭がついている。子供が上がれないように、第一歩目はかなり高いところにあるのだが、都合よく土手があるものだから、土手の頂上からだと子供にでも上がれた。もちろん最上部まで上がれたりはしないが、2,3mの高さまで上がっては、身震いして下りてきた。
斜めのワイアも、土手の上からだと、ちょうど滑り台の頂上まで前もって階段で上がっているような案配で、ぶら下がりながら滑り降りるのに都合がよかった。

【正門】
子供はあらゆるものを遊び道具にするものだ。正門もぼくらの遊具だった。

(写真2)

写真2は、1970年のもの。ぼくの子供時代とは少し土手の雰囲気が違っている。しかし、正門は元のままである。この正門の開き戸(鉄製の扉ではなく、奥に向かって開いている木製の扉の方)がぼくらの遊具だった。要は、足をかけたり上にまたがったりして開け閉めするだけのことだが、子供にとってはなかなか楽しい遊びだった。

【生け垣の抜け穴】
試験場の西面の南半分が杉の生け垣だった。テニスコートと独身寮の境界もそうだった。
杉垣は密に植わっているようでも、どこかに子供が通れるくらいの穴が空く。ぼくらがそこで遊ぶようになるよりもはるか昔から子供たちの抜け穴であったと思われる、年季の入った穴が、子供にとってはもうほとんど通用門といいたくなるほどの明々白々さで空いていた。
といっても、大人がくぐるのは無理で、子供が背を丸めて通るのである。その部分だけ土が踏み固められていて、枝がちょうどいい具合に折り取られているので、子供の目には通り道だとわかるのである。
図1のAとBがそれである。特に、テニスコートに行くためのAの抜け穴は、ぼくらにはなくてはならぬものだった。

【テニスコート】
テニスコートは、職員や講習所の学生のためのものだったと思われるが、そこでテニスをしている姿をぼくはほとんど見たことがない。一度は見た気がするが、二度までは見ていないように思う。
テニスコートは事実上、ぼくらのために用意された格好の遊び場だった。
ぼくらがそこで一番よくやった遊びは、三角ベースの野球である。Aのくぐり穴のすぐ前がホームベースとなり、2本のポールが一塁と二塁である。テニスコートからは道を隔てたすぐ東側に、白壁の大きな建物があった。何とそれは馬小屋なのだが、その馬小屋の屋根に当たるかそれを越せば、ホームランと決めていた。
東側の道はテニスコートよりも4,50cm高かった。境界の塀はなく、一種の土手のようになっていた。
今、テニスコートは国際交流センターになっていて、土手のような高みも現存している。国際交流センターと東側の駐車場の間の段差がそれである。
(写真3)

写真3は、南から北を見ている。「?」マークのついた建物が国際交流センター(元のテニスコートの北東角に近い)であり、手前の建物がちょうどかつての独身寮の位置にある。右側の段差がぼくの目には土手と映った。段のすぐ上に、かつては道があり、さらにその右側は農事試験場の東領域になっていた。今、段の上は県民文化会館のサブ駐車場である。

(この記事は次に続く)

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