(2008.9.12)
多様性の価値
 先日,気になる新聞記事を見た。大阪の橋下知事が,全国一斉学力テストの結果を,大阪府下の各市町村教育委員会は公表すべきだと言ったというのだ。もちろん,私的意見としてだけなら,何を言おうと自由である。問題はそれに続く言葉にある。
 「公表するかしないかで,その市町村への交付金の額に差をつける」。
 これは大問題であろう。つまり,知事の個人的信念に従う市町村には多くの交付金を出し,それに従わない市町村に対しては交付金を削るというのである。とんでもないことである。
 現実には,全数調査的な一斉学力テストそのものの是非が問題になっている。一歩下がって,仮にそれを認めたとしても,その結果をどのように使うか(公表するか)については,意見は大いに分かれるところである。当事者の文部科学省ですら,公表方法を一律に規定できないでいる。実施は強制するが,それをどう使うかは各自治体(の教育委員会)まかせというのである。これは「自主性」という名のもとに従順度を観察する,いかにも官僚の発案らしいずるい方策に見える。
 そもそも文科省が必要としたのは,現在の小中学生の学力水準とその動向であろう。自らが大々的に推進してきた「ゆとり教育」や「総合的な学習」が,案に相違して学力の低下を引き起こしているのではないかとする懸念が,PISA(国際学力調査)の結果をきっかけに,多くの教育機関や研究機関からわき上がった。文科省自身もそうした意見を追認する方向に向かった。つまり,10年にわたって現場の尻をつつき,ようやく根づきかかってきた「ゆとり」と「総合学習」の方針を一夜にして大転換する必要に迫られ,転換に対する根強い反対論者を説得するためにも,現実の小中学生の学力の実態を把握しないといけなくなったのである。
 全国一斉学力テストが数十年ぶりに復活した背景はそのようなものだと私は理解している。
 そもそも現状を把握するためだけなら,全数調査でなくても,抽出調査で十分である。それを知らない文科省ではない。それをあえて全数調査(全学校の特定学年生徒の全員参加)にしたのは,単なる現状把握以上の目的があってのことであろう。その目的は見え透いている。地域間,学校間等における成績の優劣をはっきりさせようというのである。場合によれば,クラス間の優劣まではっきりさせ,それを教師一人一人の指導力の差に起因させようというのである。

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 こうした動きに対して,「無用な競争心をあおる」という論点で対抗することが多いのだが,問題の本質をそこに置くのはあまり正しいことではないのかもしれない。本来「競争」は資本主義の基本的駆動力であって,過去において一定の効力を発揮してきた。今の時代は逆に,それに代わりうる新しい原理が確立しないままに,競争が失せつつある時なのかもしれない。心ある人からは,競争はよき時代の懐かしい「正義」と思われ始めているような気もする。というのは,近年の風潮として,「成功」は,苦労や努力を前提とした正当な競争によって勝ちえるものではなく,狭間を突いたり裏をかいたりする,一種のゲーム的ずるがしこさによって獲得するものという発想が広まっているように思われるからである(ライブドア事件や,大分の教員不正採用などにその先鋭例を見る)。まじめなコツコツ型が隅に押しやられている時代と言ってもよい。
 では,地域間,学校間,クラス間等の成績の優劣を公表することになぜ問題があるのか。
 一つには,それが勝者(優者)と敗者(劣者)の色分けにつながり,どこかに必ず悲嘆に苦しむ人を生むからである。
 仮にもし,東日本と西日本との成績の差が発表されたとしよう。その結果をもって苦しむ人はおそらくどこにもいない。責任の受け取り手があまりに漠然としていて,それを個人に帰する手だてがないからである。しかし仮に,西日本管轄の教育委員会と東日本管轄の教育委員会があったとすれば,事態はまったく別のものとなる。両者の成績に有意の差が見られたとすれば,まず劣者の側の委員長が大きなプレッシャーを感じるだろう。その人が弱い人なら,責任を一身に負い,辞任ないし,極端なケースだと自殺などというケースにまでつながるかもしれない。少し強い人なら,責任を自分よりも下位の者に押しつけるだろう。そしてこれまで以上の締めつけを計ることになる。
 押しつけられた下位の者は,またその人の性格の強弱によって同様の二道をとる。この連鎖はどこかで止まるのだが,下に行くほど該当者の数は増え,結末は必ず,ある特定の個人(一人とは限らない)の悲劇となって終わる。「組織の責任」という漠然とした形で終わることは稀である。一見そう見えたとしても,必ずどこかに劣者と位置づけられて苦しむ人が生み出されている。数年前,広島で校長先生が自殺した事例があったが,あれは下位の者に責任を転嫁できなかった良心的な(弱い)個人の例であろう。

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 東日本と西日本の例は仮想例にすぎないが,地域間,学校間,クラス間となれば,現実の問題である。いずれの場合もたいていは,最末端の教師が責任の引き受け手となる。そして,その指導力が問われる。名指しまではされなくとも,大きなプレッシャーと苦悩を背負わなければならなくなる。別の見方をすれば,誰かそのような劣者(スケープゴート)を生み出すことで,他の者は精神的な安泰を得るのである。これが勝者と敗者の色分けである。それによって何か大きな前進が計られるという見通しとは別の次元で,勝者と敗者が作られる。
 なお,はたして,全国一律の学力テストといった一度きりのペーパーテストの結果が,教育という無辺の裾野をもつ困難な人間活動の実体を正しく反映しうるのか,と問えば,100人中100人までが,「そんなはずはない」と答えるだろう。
 劣者と判断された人が,はたして教育者として他の人よりも劣っているのか,無能なのか,指導力不足なのか。これは誰にも分らない。劣者と判断された学校が,他の学校よりもレベルの低い教育しか行っていないのか,これも分らない。正直に現状のままで試験に臨んだ学校と,姑息な手段で成績を上げる工夫をして試験に臨んだ学校の差が,結果の違いを生んでいる可能性だってある。数十年前に今回同様の全国一斉学力テストが行われ,それが自壊したのも,その要因の一つはそうしたところにあった。
 教師一人一人の教育成果を短絡的な数字で判断する発想からは,その人が行っている教育の全体像は見えてこない。それに対する正しい評価はできない。根拠の漠とした優越意識や劣等意識を生み出すのが関の山である。もっといけないのは,結果を目先の数字に短絡させて評価する体制の元では,教育方法を改善するための工夫や,長期ビジョンに立った試行錯誤の余地がなくなってしまうことである。
 「ある人がある方法をとってうまく結果が出た」
 「じゃあそれを制度化して,みんなで実行しよう」
 そんな教育になってしまう。
 本来,教育は人と人との微妙かつダイナミックな受け答えのもとに成立しているものである。ある教師がある生徒集団を相手に,ある方法をとってうまく結果が出せたとしても,翌年別の生徒集団に同じことをやって同じ結果が出せるかというと,そんな甘いものではない。ましてや,別の教師が同じことをやって同じ結果が出せるなどとは,期待する方が無茶である。
 今日成功した方法も,明日は成功しないかもしれないのである。
 ところが,管理者の立場に立つと,何か制度を作らないと自分の仕事の成果を残せないものだから,うまくいった事例を,地域全体とか学校全体の制度として定着させたくなる。そういう衝動が管理者の宿命なのかもしれない。しかし,いかに成功事例とはいえ,それがいったん制度として強制されると,とたんにそれは腐ってくる。成功事例が成功事例たりうるのは,それが臨機応変の工夫によって生み出された場面においてのみである。成功事例は一過性なのだ。
 臨機応変の工夫や長期的視点に立った工夫がなければ,教育は生きたものとして成長しない。そうではなく,もし教育の世界に,「これがベスト」という方法があるのだとすれば,長い教育の歴史の中でそれが確立していないわけがない。そして全教師がそれに忠実にしたがえば,あらゆる現場で教育はベストなものになるはずである。しかし,現実はそうではない。理由はただ一つ,「ベストな教育方法」と呼べるような手法は存在しないからである。ベストな教育方法は,いつでも,その場その場で流動的なのだ。
 教師一人一人が最大限の工夫を発揮するためには,なにはともあれ,それが許される環境がないといけない。「今日の成果を明日の数字に出せ」,といった近視眼的な目でしか物事を見ないところではそれはできない。教師が劣等意識を持つところでも,それは無理である。自分が最大限に生かされ,評価されているという安心感と自信がなければ,思い切った試行錯誤はできない。大きな飛躍はのびのびとした心からしか生まれない。明日の結果を常に心配し,それに怯え,窮々としているような環境のもとでは,のびのびとした教育はできない。
 まっとうな自立者同士の,まっとうな競争,しかもその結果を勝敗の帰趨にかかわらず互いにたたえ合うことのできるような競争。負けても,それはある面で負けたのであって,他の面では勝っている。勝ってもそれはある面で勝ったのであって,他の面では負けている。それを互いが謙虚に認め合うことのできる競争。切磋琢磨。これが教育の世界にあれば,教育はもっとのびのびとしたものになると思う。残念ながら,いまの教育界は,縦の指令系統に縛られた世界になっている。現場にはまっとうな自立者は少なく,しかも彼らが自由に動ける体制にはなっていない。

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 もう一つ考えたいのは,教育に限ったことではないが,多様性の価値についてである。いろいろな考えをする人がいて,いろいろなことをやっている,そのこと自体がすでに大きな価値なのであって,仮に正しいとされる見解であったとしても,全員がその一色に塗りつぶされると,その組織なり社会なりは,瞬く間に窒息して腐ってくる。
 全国一斉学力テストの結果をどのように扱うか,それに対していろいろな意見が出て,いろいろに考える人がいる。それがいいのであって,そのうちの一つの見解をトップに立つ人が押しつけることは,すでにその人自身の腐った体質と窒息の実体を証明しているのである。そこからは何も生み出されない。トップが強制力を発揮すれば,へつらう人が出るだろう,反発する人が出るだろう,そして最も多く,苦悩と涙の人が出るだろう。その末に,やがて体制は自壊する。北朝鮮を見てもそうだ。権力があまりに強いから,いまはへつらう人の天下だが,これが長く続くとは思えない。アメリカのブッシュ大統領が全世界を,「対テロ同盟」に参加する国と参加しない国に色分けし,参加しない国を事実上テロ支援国とみなす,と恫喝したのも,同じ発想に立つ。
 そもそも,今日の世界的危機は,多様性の価値を本当には認めないところに由来しているように思える。自分と違う考えを容認しない狭量さ,自分と違う見解をもつ人を,直ちに敵対者とみなす短絡性。世界にはさまざまな対立の局面があるが,そのいずれにおいても,当事者は「多様性の価値を認めない」という点ですべては共通している。
 地球上に生物が繁茂し,人類が栄えてきたのは,過去において多様性の確保がなされてきたからであろう。一面的な勝ち負けや,一面的な優劣をもとに他者を排除する原理は,勝者が力を持つかぎりにおいて,同調するものを加速度的に増強させる効果がある。かつて,セイタカアワダチソウが繁茂したときのように…。セイタカアワダチソウは他者を押しのけて日本の国土を蹂躙した。だがやがて,多様性のなさ故の嫌地現象によってそれは力を失っていった。
 人類の過去の歴史の中でも,同様の現象は多数ある。安定的に栄えた例はない。たいていはシロアリに食われた家のように内部から腐っていき,最後には外部的な一撃で倒れる。
 考えていくと,究極のところわれわれに必要なのは「謙虚な他者への愛」,これに尽きるような気がしてくる。自分をも他人をも,一つの価値ある存在として認める精神である。相違点を敵対点と即断しない寛容さである。
 橋下知事の発言に欠けているのが,この寛容さであろう。
 もっとも知事は,発言の後,日を追ってそのトーンを下げ,最後には「間違いでした。すいませんでした」ですませようとしているようにも見える。イギリスならさしずめ「軽薄懺悔王」の称号をもらうところである。


(2008.6.18)
あっと驚くクチクの普遍性
 子供のころよくやった「クチク」という遊びのことを,「鳩になったTさん」にかつて書いた。小学生時代,それも3年生から5年生の頃,仲間うちでずいぶん流行った遊びである。誰かが「クチクをしよう」と言い出すと,それまでは三々五々道ばたに散って遊んでいた子供たちが,突然吸引器に吸い込まれるように集まってきて,町は突如としてクチクの子供たちの占拠場となった。彼らは路地という路地を縦横無尽に徘徊し,時も場所もすべて忘れて遊びに熱中するのであった。
 路地は袋小路になっているところが多く,大人の約束事では路地裏に連絡路などはなかった。しかし,子供たちから見ると板塀やブロック塀は冒険心をくすぐるアスレチックの障害物にすぎず,彼らは平然と塀に飛びつき,よじ登り,飛び降り,向こうはたいていは家の庭だから,おばさんの目を盗んで走り抜け,裏の通りに抜けていってしまうのであった。ニュートリノが易々と地球を通過していく姿に似ていた。
 それはそうとして,この「クチク」。妙な響きの言葉だなとは,子供心にいつも思っていた。しかし,その意味を考えてみようなどとは子供の私がするはずもなく,ひょっとしたらあれは駆逐艦の「クチク」だったのでは?そう勘づいたのは,大人になってからのことである。そして,想像が的中していたことを確信したのは,それからさらに幾星霜すぎた今日である。
 しかも,あの遊びに普遍性があったことをすら,今日私は知った。昨日までの私は,あの遊びは私の住んでいた町の,私たちの仲間うちだけの特殊な遊び,そう疑うことなく信じていた。

 今井和也氏の『中学生の満州敗戦日記』を読んでいて,偶然,このクチクのことを知ったのだ。こうある。
当時,学校ではやっていたのは「海軍遊戯」である。二組に分かれて,帽子のかぶり方で戦艦,駆逐艦,潜水艦などの役割を決めて校庭を走り回る,集団鬼ごっこである。
 名称は「海軍遊戯」となっている。「クチク」ではない。だけど,遊びの内容は疑いなく,私たちがやっていた「クチク」そのもの。「帽子のかぶり方で戦艦,駆逐艦,潜水艦などの役割を決めていた」とある。
 『中学生の満州敗戦日記』における,この遊びに関する記述はわずかこれだけなのだが,「帽子のつばが前を向いている人は横を向いている人に勝ち,横を向いている人は後ろを向いている人に勝ち,後ろを向いている人は前を向いている人に勝つ」という,私たちがやっていた遊びの規則は,「戦艦は駆逐艦に勝ち,駆逐艦は潜水艦に勝ち,潜水艦は戦艦に勝つ」という,軍国少年にとっての常識を下敷きにしたものであったことがこれでわかる。
 「クチク」がこのような三すくみの力関係を背景とした遊びであったことを私は今日まで知らなかった。
 今井和也氏が「当時,学校で」と言っているのは,ハルビンの日本人学校のことである。満州には日本各地から人が押し寄せていたから,これが元々どの地方から持ち込まれた遊びであったのかは,この記述だけではわからない。
 そこで,Web上で調べてみた。「くちく水雷」という遊びを発見した。遊び方は次の通りである。
2チームに別れ、各チーム「艦長」を一人きめ,ほかの人は「くちく」役「水雷」役に分かれる。
各チームの陣地をきめ,「くちく」役は「くちく」と言いながら「水雷」を追いかけ,「水雷」役は「水雷」と言いながら「艦長」を追いかけ,「艦長」はだまって「くちく」を追いかける。
「くちく」は「水雷」を追いかけ捕まえることができるが,「水雷」は「くちく」を追いかけることはできず,「艦長」は「水雷」を追いかけることはできない。
捕まえられた人は敵陣につれて行かれ,一列になって味方が助けにきてくれるのを待つ。味方が助けにきて,切ったところから逃げ,陣地に戻ることができるが,見張り番にタッチされたときはまた捕まったことになる。
「艦長」がつかまったり,「艦長」を捕まえる役の「水雷」が全員捕まってしまったチームは負けとなる。
 これは私たちがやっていた「クチク」に非常に近い。口で「くちく」とか「水雷」とか言い続ける代わりに,帽子のつばを前にしたり横にしたりしておくのである。捕まえたり,切って逃げたりするところも,まったく同じである。実は,捕虜の列を途中から切ることができる規則は,くちく水雷の上の説明を見るまで私の記憶から抜け落ちていた。そういえばたしかにそうだったと,いま思い出したところである。
 私たちの「クチク」が「くちく水雷」と大きく違っていたのは,開放的な運動場を走り回る鬼ごっこ的な遊びではなく,入り組んだ路地裏を遊び場とした一種の冒険旅行的・行軍的な遊びだった点である。大規模なかくれんぼという要素もあった。敵に遭遇したとき,そのときにだけ,帽子のつばの向きがものをいって,鬼ごっこに変身する。
 「くちく水雷」の場合には,遊びの時間は10分程度,とも説明されている。だが,私たちの「クチク」はとてもそんな時間では終わらなかった。日が沈むまで延々と続き,「暗くなったからもうやめよう」と言って散って帰るのが常であった。

 「くちく水雷」にしろ「海軍遊戯」にしろ「クチク」にしろ,海軍に駆逐艦が登場してから後の遊びであることは言うを待たない。日本で駆逐艦が作られたのは日露戦争の頃だという。戦艦が水雷に苦しめられるようになり,水雷を退治する必要性から,機動性の高い小型の駆逐艦が開発された。
 したがって,「くちく水雷遊び」が始まった最も古い可能性は明治末期ということになる。ただし,個人的な感触を言えば,昭和になって日本の軍国化が顕著になってから後の遊びという気がする。この点については,機会があればさらに詳しく調べてみたい気もしている。
 少なくとも言えるのは,この遊びが子供たちの中から自然発生的に生まれたものではないということである。もしそうなら,全国各地でほぼ同一時期に同一ルールの遊びが自然発生したことになり,それはどう考えても不自然である。ある地域で生まれた遊びが全国に広まったと考えるのも困難である。伝搬に要した時間が短すぎる上に,ルールの細部までが正確に伝わっているのはやはり不自然である。
 となると,考えられる可能性はわずかである。学校教育の一環として,遊戯とか体育の時間に子供たちに教えられた遊び,というのが一つ。あるいはそこまでの組織性はなかったかもしれないが,小学校の教師用ガイドブックのようなものがあって,その中で紹介されていた遊びの一つがこれだった,ということも考えられる。教育の一環であれ,ガイドブックであれ,国が全国の学校に発した指令の一つであったわけで(まさか強制力まではなかろうが),日本に軍国色が強くなって以後の話でしかありえないと,私には思える。
 上のように仮定すれば,四国の松山と,満州のハルビンでほぼ同じ遊びが子供たちを熱中させていたことに納得がいくのである。
 なお,戦後は,少なくとも学校でこの遊びが教えられることはなかったであろう。しかし,子供から子供への遊びの伝搬を通じて,戦後においても,次の世代の子供たちに引き継がれていったのであろう。私の町でこの遊びが路地裏伝いの行軍ごっこのような形に変形したのは,身近に運動場ほどの広い空間がなかったことと,路地裏を抜ける楽しさとの相乗効果から,それこそ自然発生的に変形していった結果であろう。遊びが環境によって変わる一例である。

 ともあれ,自分たちの仲間うちだけに伝えられてきた遊びだと信じ込んでいた「クチク」が,このような全国的広がりをもつ遊びだったと知ったのは,私にとって大きな驚きであった。


(2008.6.9)
亥の子と大黒舞
 最近,西成彦氏の『ラフカディオ・ハーンの耳』を読んでいて,意外な発見をした。亥の子と大黒舞のことだ。
 それを話す前に,私にとっての亥の子の思い出を語ることにする。
 昭和30年代の松山の下町。当時の子供たちにとって,亥の子は楽しい年中行事であり,同時に,夜寒と闇の神秘性に包まれた行事でもあった。家々から漏れ出るかすかな光が路地をいっそう濃い影の世界とし,ときには互いの顔さえ見分けがたい空間で子供たちは石を搗いた。
 11月の亥の日がその日であった。「一の亥の子」,「二の亥の子」などと呼ばれ,年によれば「三の亥の子」まであった。
 後の知識によると,亥の子は旧暦10月の行事とのこと。新暦の11月にぴったり重なっていたわけではないのかもしれない。
 亥の子の夜はなぜかいつも冷え込んだ。
 星が寒々と瞬き始める頃,どこからともなく子供たちが集まってくる。集まる家は決まっていて,大人たちが「地主さん」と呼んでいる家だった。私の家からは路地をはさんだ隣だ。かつては一帯の大地主だったらしく,母から何度も同じ話を聞かされた。
 「このあたりの土地は昔は全部地主さんのものでね,それはそれはお金持ちだったのよ。だけど今は,隣の家と,もう一軒,停留所の近くに屋敷があるだけになったそうよ」
 「昔」がいつのことで,「今」がいつからのことか,私には皆目見当もつかなかった。言われてみるとたしかに,隣の家と同じ姓の家が,学校の行き帰りに通る停留所の近くにあった。その家は,職人と商売人が軒を連ねる町にふさわしからぬ立派な門構えと広々とした庭をもち,子供心にも,どこか異質で威圧的な雰囲気を感じさせた。
 隣の家の方は私にはなじみが深く,同い年の女の子と幼い男の子がいた。おばあさんが格子窓から私たちによく声をかけてくれた。外の道で私たちが追いかけっこをして遊んでいると,「ちょっとおいで」とおばあさんが窓から手招きする。玄関を入ると,そこは裏庭まで続く土間で,座敷の端におばあさんが座っている。みんなに飴を一個ずつくれ, 「今日はオシロイバナがきれいだろう」とか「カンナの花が燃えているね」などと,奥の庭を指さす。
 たいていは「ふーん」とうなずくなり,飴を頬ばって外に駆け出すのだが,ときには裏庭まで土間を抜けて入ってみることもあった。庭には小さな池があり,亀と鯉がいた。その周囲にはたくさんの木が植えられ,隅に花壇がある。夏にはそこにオシロイバナが匂い,カンナが燃えていた。
 亥の子の宵は寒い。子供たちはセーターを着込み,身を縮まらせて集まってくる。おばあさんがいつも飴をくれる土間だ。天井から暖かな色の電灯がつり下がり,なぜか大工の棟梁が上がり框に腰掛けている。いつもと違う晴れがましさに子供たちはぴょんぴょん跳ねまわり,はしゃいでいる。
 頃合いを見て棟梁が,「じゃあ行くぞ」と立ち上がる。みながぞろぞろと外に出ていくと,地主の奥さんが玄関口で見送り,棟梁がそっと頭を下げる。
 子供たちは外の寒気にあらためて身を震わせ,亥の子の石にわれ先にとりつく。石は軽乗用車のタイヤを一回り小さくしたほどの大きさで,形もよく似ている。周囲にわら縄を巻きつける溝があり,ぐるっと巻きつけたその縄から,放射状に何本もの縄がタコの足のように外に向けて伸びている。それを子供たちが手に持ち,家の門々で亥の子の歌を歌いながらトントンと搗くのだ。
 縄を持つのは大きい子。小さい子はまわりで歌っている。町内の20軒ばかりの家を回るうちには体も火照り,セーターから湯気が立つほどになる。家々では駄菓子類を用意していて,子供たちが亥の子を搗き終えると,紙袋に入ったそれを渡してくれる。受け取り役は,縄をもつことのない少し大きめの女の子であった。

 さて,そこで歌われる亥の子の歌だが,『ラフカディオ・ハーンの耳』を読んでいて,意外な発見をした。ハーンが日本に来て間もない頃,被差別部落の人たちが演じる「大黒舞」を見たという。歌と舞は1時間以上も続く長いもの。庶民も上流階級も等しくそれを見て楽しんでいた。
 口承芸能だから文章化されておらず,ハーンは何とかしてそれを書き取り,英訳したいと熱望した。しかし,ハーンの日本語力ではとても聞き取ることはできず,人に頼んでテキスト化したのだが,その英訳は大変な労力の末に,結局は不成功に終わったという。
 その大黒舞。同じ『ラフカディオ・ハーンの耳』の付録に,正月に門付けをして回るのが大黒舞だとあって,その歌詞が載っていた。もちろん地域によっていろいろ違いはあろうが,そこに載っている大黒舞の歌は,まさに私の子供時代の亥の子の歌そのものであった。
 大黒舞は正月の縁起もの,亥の子は農作業が一段落したあとの子供の行事。出自や由来は違っていると思われるのだが,ぴたりと重なっているのを見ると,その同根の由来を知りたい気にもなる。
 『ラフカディオ・ハーンの耳』から抜き書きすると,次の通りである。
御座った御座った福の神を先に立て,大黒殿の能には,
一に俵ふまへて,
二ににっこり笑って,
三に酒を造って,
四つ世の中ようして,
五ついつもの如くに,
六つ無病息災に,
七つ何事なうして,
八つ屋敷をひろめて,
九つ小蔵をぶっ立て,
十でとうど納まった。大黒舞を見さいな。
 私たちが子供の頃歌っていた歌を記憶のままに書き記すと,次のようになる。
亥の子,亥の子,亥の子もちついて
祝わん者はおえべっさんに言うてやろ
それ,一で俵をふうまえて
二でにっこりわろて
三でさかずき飲み干して
四つ世の中よいように
五ついつものごとくなり
六つむびょうそくさいに
七つ何事ないように
八つやしきをたてひろげ
九つこくらをたてならべ
十でとうとうおさめた
この家繁盛せい,この家繁盛せい
 まさしく子供から子供への口承芸能だった。数え歌の部分はほとんど同じ。
 だからどうなんだ,と言われても,それ以上の言葉は私にはない。不思議なことがあるものだと思った次第である。


(2008.5.21)
 還暦を迎え,期するところ少しはある自分だが,西田幾多郎が還暦の年,京大を定年退職する際に書いた「或教授の退職の辞」には,人ごとでない哀愁と,どこか不思議な親しさが感じられて,読後しばらくしみじみした火照りから醒めることができなかった。
 話は,まるで遊体離脱のように,退職慰労会の場にいる自分を俯瞰する場面から始まる。
一団の人々がここかしこに卓を囲んで何だか話し合っていた。やがて宴が始まってデザート・コースに入るや,定年教授の前に座っていた一教授が立って,明晰なる口調で慰労の辞を述べた。定年教授はと見ていると,彼は見かけによらぬ羞かみやと見えて,立って何だか謝辞らしいことを述べたが,口籠ってよく分からなかった。宴が終わって,誰もかれも打ち寛いだ頃,彼は前の謝辞があまりに簡単で済まなかったとでも思ったか,また立って彼の生涯の回顧らしいことを話し始めた。
 こうして,彼の訥々とした話を速記者が記録したかの調子の,「私」を主語にした話へと場面が変わる。
回顧すれば,私の生涯は極めて簡単なものであった。その前半は黒板を前にして座した,その後半は黒板を後にして立った。黒板に向かって一回転をなしたといえば,それで私の伝記は尽きるのである。
 単刀直入にここまでの簡潔さで自己を振り返ることは,果たして誰にもできることなのか。学ぶことから教えることへ。そして西田のその後を今にして思えば,還暦のあとに再び学ぶことが始まり,それは旺盛に書き直すことへと続いていく。
幼時に読んだ英語読本の中に「墓場」と題する一文があり,何の墓を見ても,よき夫,よき妻,よき子と書いてある,悪しき人々は何処に葬られているのであろうかという如きことがあったと記憶する。諸君も屍に鞭打たないという寛大な心を以て,すべての私の過去を容(ゆる)してもらいたい。
 ここで「私」の話は終わり,再び俯瞰の図に戻る。
集まれる人々の中には,彼のつまらない生涯を臆面もなくくだくだと述べたのに対して,嫌気を催したものもあったであろう,心ひそかに苦笑したものもあったかもしれない。しかし凹字形に並べられたテーブルに,彼を中心としてしばらく昔話が続けられた。そのうち,彼は明日遠くに行かねばならぬというので,早く帰った。多くの人々は彼を玄関に見送った。彼は心地よげに街頭の闇の中に消えていった。
 文章はここで終わる。
 「明日遠くに行かねばならぬというので,早く帰った。彼は心地よげに街頭の闇の中に消えていった」。この一文によって,僕は長い長い余韻に沈められてしまった。退職後に期するものが,羞かみの心と混ぜ合わさって,なんと鮮明に現れ,意図されていることか。気負わず,飄々と,過去と分かれて未来に歩んでいく。僕にはそんなことができるだろうか。


(2008.5.16)
 「胃カメラを飲む」とよく言うが,昨日の検査は麻酔の中,記憶の外。
 まず準備室で,小さなカップ一杯の液体を「飲まないように喉の奥にためておいてください,3分間」。唾が出て,今にも飲んでしまいそう。涙を浮かべて我慢する。そのうち喉がしびれて,我慢もかすんでくる。
 続いて腕に注射針が刺され,ベッドごとゴロゴロと処置室へ。薄暗い室内には何台もの検査機械が並ぶ。「それでは薬を入れますよ」,先ほどの注射針からゆっくりと薬剤が注入される。それを感じていたのが数秒。注射針にふと目をやった記憶があって,その先がない。
 続く瞬間は,夢のない目覚めだった。無からの目覚め。時間が突然動き出す。
 明るい。目がくらむ。準備室のベッドの上だ。看護婦が「どうぞ」と,めがねを差し出してくれる。ベッドに横になるとき外したあれだ。
 そうだ,胃カメラ。思い出す。胃カメラを飲みに来たのだ。「終わったんですか」,思わず聞いてみる。「はい,先ほど」
 気がつくと妻がいて,「どこにも悪いところはないそうよ」,「見ていた?」,「ええずっとそばのモニターで」。
 いったいどれだけの時間が僕から消されたのか。
 最後に診察室で何枚かの写真を見せられ,「きれいな胃です。心配ないですよ」。まだ足下はふらつくが,何か巨大な安心感が体を持ち上げていた。


(2008.5.11)
 日曜日の開放感とともに庭に出ると,ほのかな香りが一面に立ちこめていた。幸せな気分になる。新緑が放つ香りならすごいなと一瞬思う。だが,カリンもウバメガシもキンモクセイもクロガネモチも,さすがに今の時期,香りを放つものはない。それでもひょっとしたらと,芽吹いたばかりのみずみずしい葉に思わず鼻を近づける。
 花や葉に鼻を近づけるのは僕の癖だ。歩きながら,道ばたの木の葉や花びらや,雑草にまで,しばしば鼻を近づける。少しでも香りがあると,宝くじにでも当たったように,心が弾む。深く胸に吸い,全身に香をめぐらせる。
 これは風に乗ってきたミカンだった。濃厚な甘さが胸の奥にしみこむ。昨日まではなかった。今朝咲き初めたのだ。道を隔てたミカン畑を,門の脇からのぞき見る。たしかに点々と白いものが見える。早咲きの品種が咲き始めたらしい。葉ばかりのミカンも多い。
 おととい,職場の裏山を歩くと,ツツジはすっかり色あせてしぼみ,今の時期,花の咲く木はどこにもなかった。梅も桜も新緑に包まれてただの木となり,降り注ぐ陽光にまぶしく照っているばかり。桜が次に輝きを見せるのは半年後だ。赤銅色に染まった葉が秋の夕日と存在感を競う。
 梅が葉にまぎれて実をつけていた。ほんの数粒。
 日射しの強い小道を歩くと,山の木々がざわっと震え,その瞬間,きらきら光る何かが霧雨のように飛び立ち,森の香りが僕を包んだ。
 いま書斎でコーヒーを飲む。そして南雲・佐藤方程式を手本に,ニューロンモデルのシミュレーションプログラムを作っている。カオス性のフラクタルが見えてくるはずなのだが…。


(2008.5.9)
 夜空は厚い雲に覆われ、糸のような雨がかすかに額をぬらす。かつては田の畦に塚があり、塚の上に碑があった。碑は雨風に丸くなり、刻まれた碑文はもう読めない。塚の下には臼に似た石が据えられ、はるかな過去から人はそれに腰かけ、遠くは石鎚を、近くは皿が峰を眺めて疲れをいやした。幾世代もの人の尻に摩耗した石は、尻の形にくぼみを作った。
 ぬれた空の一角からほのかに光が漏れている。雲ににじんで輪郭のない光。幻とも見え、いやたしかに実在の影だ。おぼろに透ける乳色のグラデーション。
 臼は今はない。塚もない。国立がんセンターなるどでかい施設がすべてを舐めつくし、呑み尽くした。名もない人の幾百年もの吐息を、それは一息に飲み込んだ。思いにひたってくぼみに尻をのせ、皿が峰のいとしい姿に見とれた僕の夢をも、それは飲み込んだ。百年の何倍もの風雪に溶け読めなくなった碑をも、それは胃の腑に押し込んだ。
 空から漏れる新月のにじみのように、吐息はかすかに僕の心を照らす。そこにあったそれが僕を見ている。夜陰の中に僕はそれを見返す。


(2008.5.7)
 木々の緑には独特の香りがある。雑草にもまた紅茶のようなかすかな香りがある。陽気と風に誘い出されて,ここ数日,何度となく重信川の土手に足を向けた。緑と草いきれ。酔いしれるような濃密な酸素。生まれたばかりの緑が吐き出す酸素。ミネラルを多量に含んだ水。得も言えぬ濃密感が鼻腔にも舌にも心地よい。
 思わず深呼吸して時を止める。すうっと緑の中に掬い上げられる。光の渦の中に同化する。五十年,百年,いや千年,時は止まったままとなる。大地と緑を作った悠久の時がここにある。時とは静止だ。限りなくゆるやかな静止だ。
 草原でキャッチボール。娘婿の投げるボールを追う。十年ばかり忘れていた感覚。テニスをやめて以来忘れていた動感。ボールが青空に溶け,緑に溶ける。体が芯からよみがえる。投げ返すボールが再び空に舞う。すがすがしい汗。
 人出でにぎわった重信の河川敷は,いまはまた平穏な静けさの中にある。


(2008.5.3)
 今朝,生徒たちを連れて将棋の県大会に。例年なら夕方までの一日仕事になるのが常だ。それを覚悟で出かけないといけない。
 将棋にしろ,囲碁にしろ,自分が対局するよりもそばで見ている方がはるかに疲れるもの。立ったままの姿勢は重労働なのだ。歳とともに,その重労働さが骨身にしみるようになる。
 今日は気楽だった。1回戦を勝てれば御の字という力量が,戦う前からわかっていたから。昼食をとらずに終わる確率80%と踏んでいた。ふたを開けると,案の定,全員一回戦敗退。わずか30分ほどであっけなく終焉。新記録だ。
 情けなくもあるが,「半日得をした」との思いも正直した。生徒には申し訳ないが,間違いなく得をしたのだ。
 この種の大会は年に数回ある。大会ごとに時期も会場も決まっている。たとえば今日の会場はM工業高校。5月初旬の土曜日と決まっている。
 大会に参加するたびに思うことがある。年に一度,同じ時節に同じ会場を訪れる。同じ部屋の同じ窓から同じ庭を眺める。目に入る風景もまた同じ。鮮やかな新緑とツツジの花の色。まるで昨日のことのように,一年前の光景が今と重なる。窓辺にたたずんでいると,一年という時の流れは夢でしかない。夏の蝉の声も,秋の落葉も,冬の木枯らしも,この瞬間,溶けて消えている。
 あっ,と声を上げそうな胸苦しさを覚える。フラクタルのように,凝縮と拡散が相似なままに転移する。それが人生なのかと,ふっと怖くなる。
 今日生まれて明日死ぬのも,60年前に生まれて30年後に死ぬのも,突き詰めれば何の違いがあろう。死ぬ瞬間には,すべてがまるで昨日のことのように,まじかに凝縮されてきらめいて見えるはずだ。
 実は僕は40年前,すでにそれを一度体験している。琵琶湖の水に沈んだ僕は,「ああこれで終わった」,と死を覚悟した。その瞬間,それまでの20年の人生が,得も言われぬ生々しさで,目の前を走り抜けた。細部にいたるまで実にリアルな映像だった。それを見て僕は,母親に「ごめん」と言い,同時に,「ああこれが僕なんだ」と,限りない安心へと誘われた。僕にとっての20年は,何らかの意味ある一瞬だった。それを僕自身が眼前に確認した。僕は瞬時にして覚悟の人になることができた,そんな気がする。
 時とはまさにそういうものだ。時ほど主体に依存して成り立っているものはないのだ。


(2008.5.2)
 昨年夏には孫ができ,今年2月に還暦。そして春から年金受給者となる。怒濤のような年寄り組への移行である。また,3月には放送大学大学院で学位授与式があり,苦労が実を結ぶ喜びも味わった。
 身は一つだが,取り巻く環境は千変万化だ。
 世間に目を向ければ,ガソリンが,庶民のわずかひと月の夢を無惨に切り捨て,元より高い値をつけ始めた。物価の高騰ぶりは異様だ。かつて,私が壮年と呼ばれていた頃にも,物価はどんどん上がった。だけど,暮らしが悪くなる実感はなかった。なぜなら,物価の高騰を吸収し,さらにそれを上回るほどの賃金の上昇があったから。今はそれがない。物価だけが不気味に頭をもたげていく。
 戦後初期の混乱期を除けば,ここ数十年,今ほど暮らしが逼迫し,しかも未来への夢が描けない時代はなかったのではないか。政治の貧困きわまれりという気がする。
 しかし一方,世は戦後最長の好景気,などという統計もあるのだ。どこに好景気がひそんでいるのか,私の目にはちっとも見えないが…。たしかに,いくつかのトップ企業は,庶民が苦しんでいるのを尻目に,「創業以来最高の収益」を上げたりもしている。それがニュースにもなる。
 不思議な世の中だ。金の回りは,エントロピー増大の法則を完全に覆し,あるところにはますます溜まり,ないところからはますます逃げていく,そんな現象を呈しているのかもしれない。
 自公の与党が,衆議院2/3という,根拠をとっくに失った幻の金棒を振り回し,なりふり構わぬ強攻策に打って出ている。これが庶民を激しく打ちつけている。悪政ここにきわまれりだ。
 この庶民への痛打が,必ずや,いま「与党」と呼ばれている勢力への決定的な痛打となって跳ね返るときがきっと来るだろう。遠からず来るだろう。

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