(その2)

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[旧聖トマス寮]

(初代寮長ルイス神父に聞く) 宮西校舎時代、聖トマス寮は市電を挟んだ学校の真向かいにあった。初代寮長ルイス神父に、当時の様子を伺った。
トマス寮は学校設立4年目の冬、建設を開始した。資材は、解体中の古い校舎の廃材である。「入寮予定の新入生の父母に見てもらうのがとても恥ずかしかった」とのこと。
柱も窓ガラスも廃材である。できあがったトマス寮は、寮というよりは校舎であった。それがトマス寮旧館(写真)。
その後寮生の増加にともなって増築が繰り返され、新館、本館、別館と、拡張されていった。別館は旧館が火事で焼失した際、鉄筋4階建てに建て直したものである。
トマス寮は新館以降、完全個室になった。日本の古い家屋構造が個人の独立性を保証しない中で、個室は神父の一つの文化的主張であったという。
現在、トマス寮は本館が取り壊されずに残っている。愛媛ダイハツの事務所である。ルイス神父の私室もそのまま残っているとのこと。ただ、周囲は一変し、校地はフジグランとして賑わいを見せている。


[愛光学園の創立起源]

マドリッドの北西110キロ、海抜1144メートルの地に古い歴史を持つ美しい町アヴィラがある。その地の王立聖トマス修道院(写真)で4年に一度、ドミニコ会ロザリオ管区の管区会議が開かれ、フィリピン、中国、日本、ベトナム、台湾、香港で福音宣教に従事しているドミニコ会の代表者たちが集まる。
1951年5月、この聖トマス修道院での管区会議において、春の美しい花のように、愛光学園の設立プランが芽生えた。この管区会議で神学博士でありフィリピンの聖トマス大学総長もされたことがあるシルヴェストレ・サンチョ神父(写真)が新管区長に選出され、管区会議の中で、 四国のドミニコ会士らの長上であるヴィセンテ・ゴンザレス神父に対して、サンチョ新管区長から「四国に男子のための中学を創りたいが、その可能性はどうだろうか」と提案があったのだ。
すでに1925年に、四国のドミニコ宣教女会が女子のための中学を松山に創立していた(今のカタリナ学園)。ゴンザレス神父も新管区長の案に賛同したのだが、多くの難問があったこともたしかである。
四国にドミニコ会の司祭が少ないこと、必要とする教育資金の不足等。しかし、サンチョ管区長が、管区として責任をとることを明言され、それを受けてゴンザレス神父はその年の11月に日本に戻り、ここに愛光学園創立の第一歩が踏み出された。
翌1952年の春には、サンチョ管区長が松山まで視察に訪れ、4月7日、松山市宮西町に位置する城西学校との間で売買契約に調印し、新しい学園の創立が決定づけられた。
この愛光学園の生みの親、シルヴェストレ・サンチョ神父は、生涯の最後の日(1981年10月19日)まで愛光学園に心をかけられ、導き続けられた。


[愛光の名付け親]

(ルイス神父に聞く) 新しい学校の創立計画に関する、ヴィセンテ神父と田中忠夫初代校長との相談は、松山市三番町にあるカトリック松山教会において行われた。その結果、「有名大学を志望する若者の中等教育センターとする」、「教師は大学課程を修めた優秀な人材とする」、「道徳教育はドミニコ会宣教師の責任による社会倫理学科目を導入する」において意見が一致した。
ところが、創設の場所について、意見の相違が生じた。田中校長は、先の目標を達成できる適切な場所は大阪か東京だという意見だった。しかし、ヴィセンテ神父と愛媛の神父たちは、強く松山を望んだ。ドミニコ会は1904年から四国で宣教してきたのだから、学校創設によってぜひ愛媛の若者たちをアカデミックに育成し、地元の文化に貢献したいと望んだのだ。
結局、田中校長の危惧にも関わらず、松山に学校を創立することになった。
次に、学校の名称を考えなければならない。田中校長は、キリスト教を教え込む学校という印象を与えないため、クリスチャンを意味しない名称を望んだ。そこで、モデスト・ペレズ神父(写真)が「愛光」という名称を思いついた。ドミニコ宣教会の望みは、この学校が愛媛県の中等学校群にあって、その特有の光をもつ新しい星になることであったのだ。
こうしてこの「愛光」の名称の当初の意味は「媛県への」であった。「キリスト的なの精神と、輝く知性の」という意味を背後に秘めていたのはもちろんである。
モデスト・ペレズ神父は1916年、26歳の時来日し、62年間四国において宣教活動に従事した。その間、1932年から1940年までは四国カトリック教会の教区長職に就いていた。1978年坂出市の聖マルチン病院で逝去、松山市衣山のカトリック墓地に埋葬されている。現在の愛光が建つ同じ衣山の丘の隣接地である。


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