愛光学園 創立10周年・田中先生ご挨拶


(創立10周年教職員記念写真)


 わが学園の発足は昭和28年の4月1日である。しかし日本に男子の中等教育機関を献じようという構想がドミニコ会のうちに芽生えたのは、26年の5月12日、スペインのアヴイラの修院においてであった。「愛光」の命名者はモデスト・ペレス師である。
 発足当時、学園から松山駅に至る間には、製材所二ヶ所と、他に二軒の家とを除いては何もなかったし、道路は瓦礫まじりの焦け土をしいた凸凹道で、焼け釘が無数に散らばっていて、そのため自転車はしきりにパンクした。校舎は罹災後急造されたバラック建てであり、正面校門のあたりは、約25間にわたって焼け跡のコンクリートの基礎がそのまま残っていて、戦災当夜の悲惨を生々しく物語っているというありさまであった。
 当時は生徒数111名、専任職員は、校長以下6人の教師と1人の事務員、応援講師4名という寂しい人員構成であり、専任職員も一人の例外を除いては、中等教育に全く無経験の者ばかりであった。その上はじめは、850名の城西高女の生徒や多数の城西教職員と学校設備を共同使用したので、われわれ専用の室は、職員室をふくめてわずか4教室にすぎなかったし、教具や実験設備は何一つなかった。このような状態が、30年度末まで続いたのである。市内の中高の学校もほとんど罹災校であり、みな充分な校舎や設備に恵まれなかったとはいえ、これはど徹底して無一物の学校は外にはなかったであろう。
 しかし意気のみはきわめて旺んで、教師は明日を荷う愛と光の子を育てるのだと信じて感激をおぼえたし、生徒も亦世界的教養人の卵をもって自認し、英国のパブリック・スクールの日本化をその志とした。「われらの信条」の生まれたのは、このような心意気からであった。男子中等教育界の競争相手は全国的であり、伝統に輝く優秀校が多数ある中であえて自己の存在を主張した姿は、よそ目には定めて滑稽であったと思う。当時を回顧して泌々井蛙の勇であったと思うのである。
 かくて昭和37年度には定員増加も完成して、生徒数は18学級1070名、専任職員は校長以下41人の教員と9人の事務員、応援講師2名を数えることとなり、校舎と教具・実験設備も一通り形をととのえることとなった。まだ不備の点があるとはいえ、発足当時のことを思えば隔世の感がある。これについては設立者ドミニコ会、毎年度の生徒のご父母のご支援に心よりお礼を申し上げたいと思う。それとともに、学園を愛して有形無形の御援肋を賜った学園外の方々のご厚意に対しても、深く感謝せずにはおれないのである。

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愛媛県松山市在住 奥村清志
愛光学園勤務
メール : koko@mxw.mesh.ne.jp